鎌倉彫後藤会の歩み


p01八幡前博古堂開店
明治33年(1900)12月 運久は扇谷の父、齋宮の仕事場とは別に現在博古堂のある八幡宮三の鳥居脇に店を構え、陳列館と称して自分たち若夫婦が移り住みました。
顧客のためには鎌倉で最高の場所であることは今も変りません。

写真の裏に明治43年(1910)12月開店十周年と、同年のロンドン日英博覧会での銀賞を祝い「些か賀莚を張り、会する者二百余人」と書いてあります。この建物は関東大震災で二階が落ちて建て直し、終戦直前に強制疎開で取り壊されたのを、俊太郎が昭和23年に新装再開し今に至っています。 その後何度も手を入れていますが全体の雰囲気は世紀を超えた今もさして変わってはいないようです。




p0228代継承
昭和22年11月運久が没し、翌23年東京美術学校を卒業した俊太郎は、後藤家28代の継承を期に、博古堂を株式会社として(1948)新たな発足をします。戦争で壊滅的打撃を受けた日本各地の伝統産業の中から、新しい時代の工芸を目指して動いたのが当時の鎌倉彫業界で一番若かった俊太郎でした。

以来、鎌倉彫協同組合設立(1951)初代理事長として神奈川県工芸指導所の誘致、秋田県からの職業訓練生の集団就職の誘致、組合共同木地工場建設(1953)、更には東京と鎌倉でアマチュアのための指導に本格的に取り組むなど活動を続け、1959年第8回神奈川文化賞を受賞しました。




p03鎌倉彫教室の開始
1955年1月東京四ッ谷の主婦会館館長奥むめお氏の懇請に応じて、同館生活講座に鎌倉彫教室が開設されたのが、最初の教室となりました。翌年、鎌倉市の要請により鎌倉市市民学級の講座を引き受け、これが鎌倉での教室の最初となります。

俊太郎は明治以来の有閑階級のお座敷稽古的鎌倉彫から脱却し、アマチュアにも仏師の伝統に根差したすぐれた彫刻工芸として、鎌倉彫を理解し習得してほしいと願ったのです。

鎌倉、室町のすぐれた古典を教材としカリキュラムを立てて基本に重点をおく指導を行いましたが、これは当時たいへん新鮮で魅力的な事でした。




p04鎌倉彫教授会
1961年1月、当時鎌倉彫教室を主宰していた11会派によって鎌倉彫教授会が組織され、その創立総会が扇ガ谷寿福寺で行われて、後藤俊太郎と三橋鎌山(一陽会)が代表理事となりました。

これを期に当会は後藤鎌倉彫研究会を正式名称としました。また教授会として免許制度を統一したのも画期的な事でした。以来教授会免状には 鎌倉五山第三 寿福寺住職内田智光禅師(当時)の書蹟が今も変わらず使われています。




p05鎌倉彫会館
1951年の協同組合設立、1961年の教授会創立と、常にこの業界の先頭に立ってきた後藤俊太郎が目指していたのは、鎌倉彫が全国的には観光土産品あるいは民芸の一種としてしか認識されていない風潮に対し、鎌倉時代以来の仏師の技術と明治以降の血の出るような先人の努力によって、自分たちが確立し、軌道に乗せた伝統工芸としての鎌倉彫を、世に正しくアピールするために拠点となるものを建設する事でした。

しかし会合を重ねる中で立場の違いで袂を分かった人もあり、残った7人の建設推進派とその傘下の会員たちが団結して、1968年6月鎌倉彫会館を開館したのです。
そして1972年4月 当会は正式名称を鎌倉彫後藤会と改めました。