2022年令和四年、鎌倉彫後藤会は創立67周年を迎えました。
鎌倉時代から佛師を家業として代々受け継がれてきた後藤家の歴史。明治の変革期に際して、造佛とともに鎌倉彫へも目を向け、美術工芸品としての新しい道を拓いた26代後藤齋宮(いつき)と27代運久、そしてそれを継ぎ第二次大戦後の新しい時代の流れの中で鎌倉彫に確固とした地位を築いた28代後藤俊太郎の足跡を辿りながら後藤会が設立され活動していく様子を紹介していきます。
寿福寺門前
頼朝が幕府を開き、鎌倉が政治の中心であった時代、鎌倉には建長寺をはじめ多くの大伽藍が次々と建立され、それに伴って運慶を中心とする奈良佛師たちの流れが東国にまで及び、伊豆、三浦の各地には今も運慶作の優れた佛像が遺っています。
当然、鎌倉にも多くの佛師が集まり現在の扇ガ谷寿福寺周辺に佛所を形成して盛んに活動しましたが、佛師たちはみな、それぞれの家の初代は運慶であると言い伝えてきました。
しかし都が京へ移ると次第に佛所はさびれます。天保12年(1841)の新編相模国風土記稿には「佛師は僅かに三橋、後藤の二家を残すのみ」と書かれるに至りました。
佛師の看板
維新の変動を経て明治という新時代が始まります。
廃仏毀釈の嵐の中、二家の当主後藤齋宮(いつき)と三橋鎌山は、八百年伝えた彫刻技術を生かし、美術工芸品としての鎌倉彫制作へと新しい道を拓きます。
なかでも齋宮(いつき)は最後の鎌倉佛師としての矜持を保ち、終生造仏に力を注ぎ、鎌倉彫と共に優れた佛像を数多く遺しています。
この齋宮(いつき)が俊太郎の曾祖父・26代鎌太郎齋宮(いつき)慶廣(けいこう)です。齋宮(いつき)は代々当主が嗣ぐ家の名、慶廣(けいこう)は佛師としての名乗り、鎌太郎が本名、三つの名を持っていたわけです。
当時、扇ガ谷の工房に掲げられていた看板には大きく佛師と謳っています。
金割り集
この古い帳面は、運久が書き記した「古佛金割集」と「慶明遺稿・古作佛像金割集」という二冊の記録です。
金割りとは、佛像のお顔の寸法を一ツとし、腕を一ツ半(1 1/4)二の腕を一ツ小半(1 1/2)というようにして各部の寸法を割り出す方法です。
運久は明治25年頃、たびたび奈良や京都を訪れ佛像やその周囲の彫り物を克明に写生しています。
今と違っておそらくそれらに直に手を触れて採寸することができたのかもしれません。
齋宮作の佛像
『私は運久から「佛像の顔は目口小さく耳鼻大きく」作るのがコツだと聞かされていたが、自分が実際に造った時、こういう口伝の重みがよく解った。そしてこの口伝がそっくりこの「慶明遺稿金割集」の中に書かれているのを発見したときは運久の研究ぶりに脱帽したのである』(かまくら春秋社・鎌倉彫後藤家四代より)
佛像はそれぞれ定まった相を持ち、衣服、持ち物、乗り物等約束事が多い。こういう伝え事は一子相伝といって父から長男一人に伝えられ、弟たちは弟子の一人として兄から教わるものだそうです。
再興碑と俊太郎
この明治の鎌倉彫先駆者、後藤齋宮(いつき)と運久、三橋鎌山と鎌岳の二家の父子を顕彰する『鎌倉彫再興碑』が、昭和54年(1979)11月かつての佛所の跡である後藤家門前に、後藤家俊太郎によって建てられました。